定型約款からみる「虚業」的事業
定型約款は事業者が一方的に内容を用意し、その変更はほとんど不可能です。やーなら契約すんなって話ですが、そのサービスが生活に必須なら従うしかないです。生活の利便性を保つためでも従うしかないでしょう(某携帯会社さん聴いてますか!)
まあ、改正民法で内容の合理性まで規定されましたが、変わらんでしょうな、約款の実態は。
そこで、これはおかしいという意識を持ち続け、それを社会にアウトプットすることが大事です(SNS等)。
(訴訟を起こすことがベストと思いますが、やはりタイムコスト等の費用対効果を見れが難しいでしょう。ただ、そのコストは高いですが、その訴訟を起こすことの社会的意義は高い。)
なぜなら、そのアウトプットの声が大きいほど「虚業」を排除できるからです。
虚業とは、ある企業の社長曰く(松井証券の社長さんだったかな)顧客の納得いっていないコストで成り立っているビジネスです。
みなさんは携帯会社の意味不明な違約金条項や解除金が日割りでなく月割りであることに納得していますでしょうか?
一旦登録をデフォルトにしてそのあと解約手続を取らなければいけないことに納得しているでしょうか(〜ワレット君のことやで!)
携帯関連サービスの申込みに記入した後にしか契約書を見せてくれないことに納得していますでしょうか?(パンフは見せてくれますが、あれには書いていないめっちゃ消費者に不利益な条項が契約書に書かれています。)。契約の成立時期は、「申込み」書を提出して、それを「承諾」して携帯会社が受け取ったときです。つまり、自分の知り得ないことについて後出しの契約書で縛られます(はっきりいってこれは訴訟したら勝てそうですが。知り得ないことについて、日常必須品の契約の申込みを強制されるということですから)。
約款条項の文字の大きさに納得できますか、いやできない(反語
不動産業者もそうです。なんで保証金が賃借人に帰ってこないんですか。敷金と一緒でしょうに。それが業界慣行だからという理由に納得して保証金を払えますか?
原状回復義務という費目は前の居住者から回収すべきでは?なぜ今から住む人が払うスキームに納得しなければならない。
これらは「虚業」です。実際のサービスに納得してコストを払う「実業」ではない。
怒りは湧いても、変える方法を知らないまたはタイムコストの高さから、納得はしないがお金を払う。
複雑化させて、なんとなくわからないけど納得はできないけどまあしょうがないという消費者につけこんで、何のサービスも提供せずにコストを払わせる「虚業」。
これらをツイッターで、おかしいと思う、と呟くだけで十分です。拡散性の高いところで常識的に考えておかしいと思うことを残すだけで、価値があります。
まぁ、将来的には必ず「虚業」を約款に組み込んでいる会社は敬遠され社会から消えます。消費者に知識を提供するツールがどんどん増え、その質も高くなっていくからです。
ぎゃー疲れた
改正民法の約款からみる法律家(主に弁護士)の社会的生産性/弁護士の見分け方
掲題のことについて書きたいと思います。
民法改正で明確な定義が条文に示されたのでそれを参考に
1.弁護士の社会的生産性(結論を標題に書いてしまっていますが・・・)
改正民法548条の2以下の規定が(定型)約款について規定しています(今ある約款はほとんど定型約款と思って頂いてよいです)。
548条の2第1項では
「定型約款」とは「定型取引において、契約の内容とすることを目的としてその特定の者により準備された条項の総体をいう。」と定義されています。
※なお定型取引は「定型取引(ある特定のものが不特定多数者を相手方として行う取引であって、その内容の全部又は一部が画一的であることがその双方にとって合理的なものをいう。」と同項で定義されています。
この時点で、「は?」と思われた方もいると思います。絶対にこの原文を口頭で聞かされると「あん?」ってなると思います。
その感覚は正しいです。
法律を専攻した者は一読でわかる程度の内容ですが、契約を締結する人の多くは法律を専攻していません。
対象がそのような方が多数であるのに、なんでこんな分かりにくい条文構造にするのか・・・だから法律家は食いっぱぐれないんですが、
法律家は、本当は簡単に定義できることを複雑にされたものを、人々に分かりやすいように簡単に解釈して提供するサービス職です。
が、それの社会的生産性の大小を考えると、本質的には小さいというのが僕の思いです。
なぜなら、本来簡単であるが難しく規定されたものを簡単に解釈し直すことによって社会が発展する(社会の中でパイを増やすという文脈で使っています)ということはないからです。
社会の発展に寄与しない職業がもてはやされる傾向が多いのが現代社会ではありますが(例えばゴールドマンサックス等の金融会社は超複雑化された金融商品を横から横に流しているだけで本質的に社会に何か成果物をもたらして社会を豊かにしている訳ではありません。言ってしまえば本質的にあってもなくても困らない組織です)弁護士もそれと似ています。
規定が明快にちゃんとなっていれば、不要です。
本来は規定を定める時点で法律という学問が社会を規律するものであり、対象が一般人であることから一般にわかる表現にしておくべきです。
もちろん、債権や債務、危険負担、本旨履行、金銭消費貸借、遺留分などは平易な表現にすると長くなりすぎるので、このような法律用語を規定することは致し方ありません。
でも・・・・注釈をちゃんとつけてあげればいいじゃない!
それか政府が全国民に対し、民法等重要法令をネット媒体ですぐに見れるような状態に設定して、債権の上にカーソル合わせるとその意味を簡単に訳してくれるような条文構造にすればいいのでは?
(んまあそうするとiPhoneとか持つことが必須になってアップル等、全世界のプラットホームを独占しているシリコンバレーに利益を落とすことになりかねんという議論もあると思いますが・・)
弁護士は別に偉くないです。法律が、不必要に難しすぎる又は不親切なだけです。
ちょっと具体例が江戸時代にトリップしますが、彼らは士農工商で言えば、商に近い。
士農工商を現代の経済面だけで考えれば、
士が、クリエイティブなシステム・フレームワークを開発する企業・研究者、そのためのロードマップを敷く有能な政治家・官僚
農工は、社会システムを支えるに不可欠なワークをこなす人や社会の文化的教養を広げていくアーティストたち(あんまり労働者という言葉は嫌いなので・・・)
商が、投機的なことしかしない企業や社会に対して本質的に利益をもたらさない士業
といった感じです。
もちろん、それは社会的な価値や意義であって、別に自分がそのワークをしていて楽しいならいいと思います。お金稼ぎが趣味でも(社会的にどうかは別として)いいと思います。自分の人生ですし。
弁護士は、現状は法律が難しい以上、社会的には必要とされますが、法律が簡単になるべきである以上本質的には不要であるべき職業です。
そのような職業が偉い・凄いといわれるのは違和感大です。
(そもそも、社会で紛争が起これば起こるほど好景気という職業が高貴であるとは・・・どうなんでしょうか)
2.弁護士の見分け方
1がちょー長い。ごめんなさい、「簡単にせえや」と言う資格ないですね笑
では端的に2.は述べましょう。
法律を呪文みたいに唱えていれば✖︎(本当に機械の方がマシです・・・)
具体例を出して、かつその例えが上手いなら◯(その弁護士の方は絶対に裁判での弁論も強いです)
それに加えて、フラットな姿勢(先生という感じを出さない)で話をしてくれるなら◎
です。
1.は抽象論を具象事案に落とすことに慣れていない典型です(若手の方に多い)
2.は法律の抽象性を認識しながら、相手の立場に立って具象事案に落とすことを練習することに長けている方です(中堅に多いですかね。若手の弁護士の方でも素晴らしい方はこのような素養を持っています)
3.は年齢関係なく、多分オーラで分かります。
3.結論
まあ現状は必要な職業です。ただ将来的にはテクノロジーによる法律解釈が公共財として提供される可能性が高いため、なくなりはしないでしょうが、何年もかけてとるべき資格とはならんでしょう。
うへぇ・・・・疲れた・。
本当は約款の悪性についても書きたかったのですが・・・
書きます((中田)翔さんのホームラン集みてたらちょっと回復
声が出ない人、出にくい人が使えるテクノロジー(➕ダブルインプットや契約書の言語化に使えるテクノロジー)
閃いたことしか書かない、ブログ・・・許してください・・・
今回は、僕が聴覚と視覚の2つの感覚で、2つの文章をインプットするダブルインプット方法論(契約書の校正でも使いますね!聴覚で聞くのは大事ですね〜)が、
実は言葉を発し得ない特性を持っている方がコミュニケートの支障を改善するために、すごい安価に、今すぐ使えるツールなのでは!?
と思い、紹介したいと思います。
以下の設定で文章の音声読み上げをできます。
(macです〜)
https://accessreading.org/manual.html
(こっちはWindowsです〜)
そして、ラップトップで作成した文書を上記のショートカットで読み上げれば終わり。
んなもん知っている・・・・笑?
とにかく、僕はこれで2つの異なる知識をインプットしています。
慣れれば・・・まあ大丈夫です。
きっと、ラップトップじゃなくてもスマートフォンでも可能と思いますので、声について特性があり、コミュニケートに支障が出ている方は参照に〜
次こそは、民法改正を・・・・書く・・・・
掃除
久しぶりの投稿になります。
次は西欧美術、侘び寂び及び宗教の関係から、日本の美術について記事を書きたいです(願望)。法律は・・・まあ民法改正の内容の案内ぐらいは書きたいかなぁ・・
で、今日は掃除について
で、このブログの記事が凄い僕の理解の助けになりました。
※前提として、配置は意図的、放置は意図なし、置くは意図性について考えずに記述しています。
①余分を置く
不要な物が置かれると、空間デザインの不統一性を生み、
一般的には受け入れられないものとされます。つまり余分を削ぎ落としていない。
もちろん、それが美しいとされるものは多くあり、余分なものから感じる美意識・思想もあると思います。
ただ、それは、余分を置く行為に一定の思想・美術観に裏付けられたものに限ると思います。
不要なものを、無意識に置いたものには、何も感じることができず無関心となるでしょう。
②実用性・便利性
そして何より、家・オフィスに配置されるものについては、主に実用性・便利性(どこにあると便利か)に着目して配置されるものでしょう
(注意点として、「配置」についてアート面より実用性・便利性を重要視するという意味です。つまり、家具のアートな面を軽視しているというような意味ではありません。
家具にはこだわりある人の方が多いでしょう)。
ビジネスではタイムコストの点では当然便利な配置を選ぶのは当然ですし、家でも忙しい現代人としては同様でしょう。
このような考え方からすれば、家(オフィスはもういいやw)中のモノの配置は、使用の頻度からすぐ手に届く(例えば家事をするときに用品は手に取る順番で配置されている)など、実用性・便利性に着目して行われます。
③結論
①において不要なものについては無関心
②において家にあるもの配置は実用性・便利性に着目される
この2点からすれば、不要なものは、無関心で、実用性・便利性がない故に、部屋に無造作に放置されます。
したがって、不要なものが多ければ多いほど、部屋は散らかりやすい。
以上、論証終わり。
掃除は、不要なものを、見極めるだけですぐ終わるかもしれませんな!(伏せ目
他者に対する負の感情
今日は感情について書きたいと思います。
感情のコントロール方法など、よく書籍で出ていますが、研究論文っぽいのはあまり見たことがないです。
ちょっと内容がロジカルじゃない・・・(不満顔)
といっても研究論文をそのまま買う人もいないし、そもそも売っていないし・・・しゃあない・・・と!
思っていたら、EQについて調べていたところ、
の中で、いい感じで感情のコントロール方法が研究されていました!
ただ、散文的に述べられていただけですので、自分で纏めてみました。
自己解釈がめっちゃ入っているので、原著をみるのが一番ですが。
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他者に対する負の感情
その負の感情はいったいどこから来たのか
行動をロジカルに考察して芽生えたのかそれとも違う負の感情と連鎖し情動として芽生えたのか
おそらく前者は少ない。
感情は連鎖する。それを断ち切る必要がある。 ではどうするか。
1.まず一つとして、離間の見(客観視見)で自分の負の感情の正当性(つまり負の感情が相手型の行為の悪性に比例しているか)を注意深く考察することが考えられる。
なぜなら、行為の帰責性と比例がとれていない感情の表現は、ただの八つ当たりであり、ただの負の感情の転嫁だから。
例えば、今朝夫婦で一緒に楽しい食事をとってご機嫌な部長さんと今朝夫婦喧嘩してきたばっかりの部長さんとでは、書類に不備があった部下への叱責の程度は、部長が離間の見を習得していない限り、確実に後者が大きい。
しかし、部長の夫婦事情など怒られた部下にとっては知ったことではない。夫婦事情とキレる程度が因果性を有していいはずがない。自分の中で処理すべきことを部下に転嫁する部長は尊敬されることはないだろう。
【っとこれは自分が今考えた例え。例えが長いですねぇ・】
考察にあたって感情を遡ることは難しい訳ではないが、負の感情の根元を特定したとしても自分の怒り悲しみがすぐに抑えられるわけではない。
特定してから5分間は自分を納得させるのに必要だろう。
2.もう一つは 相手の立場に立って考えることだ。
(女性が得意な分野かな?)
相手も色々な感情にさらされている。自分の抱く感情が例え(根拠のある、比例の割合が取れている)正当なものであったとしても、当該状況で相手にそのままぶつけることが必ずしも物事を上手に回すことなるとは限らない。
相手に、この感情を、今なのか、どのように伝えるのか(直接伝えるのが正しくニュアンス伝わりより好ましい)ラポールは形成済みか、等。
もちろん、自分の感情がどこから来たのかは必ず特定しておく必要がある。なぜか相手は自分の感情の後ろにある根元の感情を読み取ってしまうことが多い。
読み取ればその負の感情を伴った主張など相手にしないだろう。
繰り返すが、行為の帰責性と比例がとれていない叱責に意味を見出すほど人間は理性的ではない。
負の感情の連鎖は
①自分の感情を離間の見で特定し、辛抱強く治るのを待つ。
②相手の立場に立って、どのような思いを抱き世間(自分を含め)を見ているかを注意深く考察し、共感しようとする。
この2つを実践することで、なんとか断ち切れる・・・かも、という程度に難しいことだ。しかし、これを実践しようともしない者は小人のままであろう。
以上
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うーん、芸術の言語化もそうだが、そもそも自分の言葉で表現するのも難しいんですよね。修練修練
哲学と芸術の限界とその〈外〉
美術の言語化の重要性については前の記事で書きました。
今回はその美術と哲学の関係性について言及している論文を題材にして、美術の言語化及び哲学の感情性についての理解を深化してみようと思います。
論文は
〈外〉への共振 ―― 哲学と芸術の限界とその〈外〉 藤井雅実
http://cs-lab.zokei.ac.jp/labtu/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E6%9B%B8%E7%B1%8Dsearch-destroy/
の中にあります。
著者の藤井さんから許可を得て掲載させて頂いております。
結論から述べますと、この論文の視点は私に新しい視点をくれましたし、内容にも賛同です。
ただ、商業的に作られたものではなくゼミのために向けられたというものとのことでしたので、editorがほぼ確実に入っていない。
そのせいか、かなり構成が読みにくくなっていますので、内容は「筋」で読むしかないと思います。
全ての記述の意味を理解しようとして内容をつかもうとすると確実に完読できません。
著者も作為的に言語体型の不統一や意味不明瞭の言葉を連続で使っている節がありますので、「筋」を掴めばいいと思います。
商業的・学会向けに作成されたものでないならば、論文の形式的なところに着目することに意味はありません。
「筋」を読めれば十分です。(なので最後まで読めていません(小声)追記:4月27日に本論文を後ろから全部読んで見ましたが、やっぱり筋しか見えません・・・脳にインストールされた知識が桁違いだからこそ、筋を見るしかないのだなとも思いました)
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僕の理解によれば本論文の「筋」は、
「芸術も哲学も日常にある、そして両者は区別が難しいほどに近似性が認められる」です。
芸術と哲学が語られる文脈で、「脱日常的」という言葉が本論文では多用されますが、これは両者が日常にあるという本論を際立たせるために使われているのだと思います。
僕は哲学も芸術も日常にないと価値ある人生をおくることが難しいと考えていたので、そういう「筋」がすぐに見えた気がします(もちろん僕の「筋」が当を得ていない可能性もありますが、本は読み手が全てと考えていますので、それはそれでいいのです笑)。
芸術や哲学がなぜ非日常的と捉えられるのか。
それは、両者が「道」として捉えられているでしょう。
古い古い昔からカテゴリーとして確立し、偉人を輩出した両分野は、尊敬には値するが、それを語り得るためにはタイムコストの高い(時間をかけて勉強しなければならない)もの、つまり「道」と捉えられているからでしょう。
現代人はみんな忙しいですから、タイムコストの高いものは遠ざけたいのは当然です。
スマホソーシャルゲームのような身近な遊びもありますし、なおさらでしょう。
ただ、私は芸術や哲学は「道」であるとは思いません。
「道」は茶道・弓道・柔道のように、ある一定の美徳に裏打ちされた 方式 を 長い年月をかけて守り続けていく ことによって確立される芸術または哲学の一分類と考えています。
つまり、「道」は芸術や哲学の中に包摂されるもので、タイムコストの高いものをさす という理解です(なお、タイムコストの高いことはそれだけ習得が難しいという点で尊敬されるべき、という文脈で使っています)。
芸術や哲学はそのような一定の方式はありません。
服・絵・家具や思想に方式はありません。
両者は「道」より広い概念です。
そして、それらは日常にあるものです。
ある人の服や家を見れば、その人の芸術感を看て取れます。自分の美しいと思うものを選んだのですから。
また、それ自分の価値観に基づいて選んだものでもあります。
価値観は、人によっては言語化が難しいかもしれないにしても、哲学と言われるものと一緒です。哲学もどこに価値を置くかという思想に過ぎないからです。
上記のような考え方からすれば、芸術と哲学は日常にあるというだけでなく、その区別も難しいでしょう。感性よりが芸術、言語よりが哲学ということぐらいでしょうか。
ただ、哲学もその根源は人の感情・感性にありますから芸術と同様と言えますし、一方で、芸術も歴史的コンテクストや作者の思想が反映されている点で言語化が可能であるので哲学と同様でしょう。
以上のような、「芸術も哲学も日常にある、そして両者は区別が難しいほどに近似性がある」という「筋」を本論文によって読み取りました。
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僕は言語処理優位、処理速度(アウトプット)劣位の人間らしいので記事を書くのはなかなかアウトプットの練習にいいかもしれません。
藤井さんの論文は「筋」が見えればはっきり行って細部を拾う必要はないです(まあどの本でも一緒だと思いますが、この論文は細部を拾わせない仕様になっているので)
次はまた、法律の記事を書きます。 てかブログマーケどうするかなぁ
②行政解釈の取り方
行政解釈の取り方についてやっとかけます・・・!
コンプライアンスの記事でも書きましたが、現在の日本は、成文法であるのに官が民の早い経済的変化を捕まえてれないシステムになっており、大事な解釈が実態を反映できていません。
では、具体的方法論を書いていきます。
フロー
1. 法務解釈の確立
まず業務活動に対する影響の程度を把握するためにcompanyのコンセプト(抽象的方向性)を把握する。
①法務チームで法律解釈
(他社の法務解釈(HPとかに載ってたっりしますし、取引先なら、よほどの会社間のパワーバランスがない限り教えてくれます)・判例検索システムと法務担当者がいれば十分に解釈できます。弁護士にはアウトソースする意味はあまりないです(自社の業務を知らないからです)。法務担当者の知人に弁護士がいるのであればそこを通じて解釈を取れたらラッキーぐらいでいいです。)
このとき、companyのコンセプトと同時に上流(経営陣)のもつ経営方針を緩くでいいから採っておきます。
なお、さすがに真っ向から反するとタイムロスですから、その時はコミュニケーションを取る機会を設けましょう。
もっとも、法務担当者は上流を説得ならしめる精緻な解釈を行うべきですから(それが「法務」としてハイヤーされる理由)、ただ単に方向性が違うというだけで上流の指示に沿った法律解釈をしようというのは間違いであり、価値がないです。
②法務解釈の方向性を決める
行政庁の規制の解釈は多義的であることから、法務で解釈の方向性をしっかり決める必要がある。そしてそれが後にブレないようにドキュメント化しておく。
⬇
上流に法務解釈を説明。
companyのコンセプトと法務解釈が相反しないかを確認。 もし、上流が行政庁の見解を重視するのであれば、行政庁の多義的保守的解釈の傾向を説明した上で、事前にcompanyとして行政庁から採る解釈の方向性を決めておく必要があることを説明
(可能ならばコンプライアンスの本来的定義も含めて)。
2.法務解釈の確立後
関係行政庁に対して法務解釈の正当性についてヒアリングする(なお法務解釈が社会的利益を損なうものは論外)。
この際、前述したように関係行政庁の規制に対する解釈が明確でない可能性を考慮する必要がある。
そのため、法務解釈が行政庁の規制の解釈に反しないものであるという正当な立場を当社が取っていることを前提にヒアリングずる(繰り返すが社会的利益を損なう法務解釈は論外)。
3.具体的なヒアリング方法(ここが一番重要です)
①規制条文の趣旨を確認(復唱させる)し、行政庁の方から法の保護法益を明確に案内して頂く。
②「では、〜という解釈でよろしいでしょうか」
③「そうでないならばこういう解釈と捉えることになると思うがよいか」
解釈の取り方は② 、③の繰り返し。上記多義的解釈及び行政庁の保守的傾向を考慮すると、質問の仕方はフラットではなく、法務解釈が立去趣旨に反しないことを確認するというものが好ましい。
行政庁の条文解釈に形式的すぎるところを感じたら、先に頂いている保護法益と照らし合わせて法務解釈が保護法益を害さないことを緩やかーに説明するのをいれて、②③のループへ 。
4. 関係各所への認識共有
法務解釈を説明、認識を共有。各部署で生じ得る弊害をそこでヒアリング。